惰性で生きているとこうなる

筆者の謎に包まれた日常を垣間見ることができる日記のようなもの

何でもかんでも後回しにするクセをどうにかしたい

ほんの2,3ヶ月前、人生で初めて年金の支払いをした。

未納期間1年半くらいだった気がする。

学生納付特例制度とやらを申請すればとりあえずの支払いは免除されるらしいが、どうせ将来払うのであれば今のうちに払ってしまえ。


未納分35万円弱を一括で支払った。

払うことが非常にバカバカしいが、支払ってしまったのでもうそのお金が自分の手元に返ってくるのは数十年後だ。(果たして支払った分すら返ってくるかも怪しいところではあるが)


こんな感じで1年以上も後回しにしていたことがあった。



極端な例ではあったが、他にも後回しにしてしまっていることが山積みになっている。

自分で自分の首を絞めているこの状況から逃れたい。



なのにどうして僕はこうして無意味な文章をダラダラ書いているのだろうか。

まさに今この瞬間にもやるべきことは他にたくさんあるのだ。優先度の設定がバグっている。

こんなことをしている場合じゃない。やるべきことをやれ自分よ。

七夕の願い事を済ませたので取り急ぎご報告

本題に入る前に、少しだけお付き合いください

前回の投稿の締めの一文

苦しみの先に「いいこと」が待っているかもしれないから。

何かいいことないかなあ - 惰性で生きているとこうなる


このようなクサい文を書いてしまい、慙愧の至りでございます。


ポエマーすぎる。くっさー!!


自分で見返してみて気が付きました。他人に指摘されなくてよかった


普段こんなポエ味の効いた言い回しはしません。魔が差したんでしょう。そういうことにしておきましょう。


僕の醜態についての言い訳はこの辺りまでにしてもろて



本題に入らせてください。


先日、自宅マンションの正面玄関にこんなものを見つけた。


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ああ、七夕か。そういえば、最後に短冊に願い事を書いたのはいつだったっけかな。


笹の横には、短冊とペンが置いてある。どうやら自由に飾っていいようだ。短冊を部屋に持ち帰り、願い事を熟考することにした。


ペンを握り締め、鬼の筆圧で思いの丈を短冊にぶつけてやろうと鼻息を荒らげていたが、ここで大きな懸念材料が。


マンション内で願い事を書いている大人ってもしかして僕だけでは?問題。


想像してほしい。チビッ子たちの可愛らしい願い事の中に、ひとつだけ現実味のある明らかに大人が書いたであろう願い事が紛れ込んでいることになる。


それはちょっぴり恥ずかしい。他の短冊にうまく溶け込むような願い事を書くために他の願い事を確認しに正面玄関に戻る。


他人の願い事を確認するために深夜2時にコソコソ家を出る成人男性など世の中に僕だけだろう。





チビッ子A「〇〇高校に受かりますように」

おお、僕もかつてはこんなことを書いた気がする。落ちましたけど、ええ。結局自分次第だよがんばれ受験生。


チビッ子B「早く梅雨が明けますように」

梅雨は気分が上がらんよね。僕も早く明けてほしい。代わりに願ってくれてありがとう。


チビッ子C「コロナがなくなってみんながたのしく元気になりますように」

素敵な願い事。おじさん泣いちゃう。自分の子供にしたい、養いたい。


ワタクシ「お金の使い方が上手な大人になりたい」

まずは稼いで勉強しろカス


さすがに僕の願い事は良くないだろう。明らかに浮いている。あと、七夕にお金に関する願い事っていうのもなんか良くない気がする。意地汚い。


なにかこう、低レベルでありながらも大きな夢を叶えられそうな願い事を書きたい。


悩みに悩んで2日が経過。いくら何でも考えすぎた。


遂に、僕は最適解を見つけてしまった。


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ほどよく頭の悪そうな字の汚さで勝負を仕掛けてみた。これなら彼らの願い事に溶け込むことができるだろう。


「つよくなりたい」


この、「つよい」という抽象度の高い形容詞。あらゆる「つよい」を包含している。


僕はめっぽう胃が弱い。すぐに胃もたれしてしまう。脂っこいものでも食べられるようになりたい。胃が強くなりますように。


目力も強くなりたい。弱そうな死んだ目をしているからなめられている。目力で黙らせてやりたい。目力が強くなりますように。


特に必要な力は筋力だ。筋肉。マッチョ。マッチョネス。



“キングダム” という漫画を読んだことはあるだろうか。キングダムというのは春秋戦国時代の中華を描いた漫画である


この漫画の最大の魅力こそ、マッチョネス。名だたる武将たちが登場するが、どいつもこいつもマッチョ。圧倒的に歩兵が多い戦場を馬に乗ったマッチョな武将が駆け巡り、敵陣を蹂躙していく。マッチョネスの狂喜乱舞。戦場はマッチョの独壇場なのだ。


もちろん戦には戦略というモノが存在しており、軍師という人たちが繰り広げる頭脳戦も勝敗を分ける重要な要素であることは間違いない。


しかし、マッチョな武将の前ではそうした戦略は意味をなさないことがある。圧倒的なマッチョによるゴリ押しも可能なのだ。あと、結局は軍師たちもマッチョであり、強いやつは皆マッチョ。


そして、キングダムの見どころは間違いなく秦国の将軍である蒙武と楚国の総大将である汗明の一騎打ち。マッチョがマッチョを底知れないマッチョネスによってねじ伏せる極めてマッチョフルなバトルが繰り広げられる。マッチョによる一騎打ちは、そうでないもののそれとは次元が違う。


しかも、マッチョな将軍が率いる部下たちも例外なくマッチョ。漏れなくマッチョ。特に汗明が率いる隊はすごくマッチョ。山のようなマッチョ。マッチョの群れ。


そんな汗明軍は少し特殊。マッチョな兵たちが太鼓を叩き、マッチョな汗明を鼓舞する。


ドドンドドンドンッッッッッッッッッ!!!!かんめいっっっっっっ!!!ドドンドドンドンッッッッッッッッッ!!!!かんめいっっっっっっ!!!


チアマッチョの野太い声援は汗明をより強大なマッチョに仕立て上げる。もはやそれは世紀末。マッチョのマッチョによるマッチョのための戦場と化す。


蒙武と汗明のマッチョくらべは実際にマンガを手にとって見てもらいたい。あなたもマッチョになりたいと思うはずだ。


キングダムを読んだ人なら分かるかもしれないが、マッチョはやはり圧倒的存在感。そこらの武将では、マッチョな武将には歯が立たない。



僕もマッチョになって周囲の人間から恐れられたい。マッチョになって他者をねじ伏せたい。マッチョになれますように。



こうしたぼくの思いが「つよい」という言葉にパンパンに詰まっている。


それにしても、「つよくなりたい」という願い事から滲み出ている弱々しさ。そこはかとない弱々しさ。


こんな弱々しい願い事をしている時点で強くはなれないのかもしれない



キングダムおすすめですよ。

何かいいことないかなあ

というのも、ブログに書くネタがない。


特にコンセプトも無く、適当に始めたこのブログは早くも迷子になりかけている。




「彼女できないかなあ」が口癖のモテない世の男性諸君と同じ状態だ。



何もしていないくせに、女性が言い寄ってくると思い込んでいるアレ。



自分で行動を起こさず、周囲の環境の変化に身を任せたら人生が良い方向に向かうと思っている人種。




自分はその人種かもしれない。



「何かいいことないかなあ」



実に他力本願な嘆き。




哀れ。



そんな哀れな成人済み男性(ワタクシ)は、人生21年を経てようやく重い腰を上げた。


今年度から新しいことにちょっとずつ手を出し始めた。

どれもこれも順調とは程遠いが、ちょっと大げさに言うならば、人生に大きなインパクトを残しそうな予感。


変化を好まない僕だが、あえて変化を求めてみた。



99%の不安、そして1%の高揚感。

この1%の高揚感というのが意外にも心地よい。

たまに電気風呂に入りたくなる感情と似ている。(似てない)



思えば、これまでは楽な道にまっしぐら。



しかし、今回はあえて苦しい方へと足を踏み入れかけている。


チャレンジってやつだ。

小学生の頃、チャレンジ〇年生ってやつ溜め込んでたなあ。しっかり消化した記憶がない。


そんなだらしない人間でも成人できるっていうんだから、人生って easy なのでは?と錯覚してしまう。


もちろん周りの人たちの支えがあったからここまで生きてこれたわけで、僕一人ならとっくに野垂れ死んでいる。


これに気が付くかどうかってとても大事な気がする。

世のぐうたら生きている同胞たちにも教えてあげたい。


これまで支えてくれた人たちに感謝するとともに、これからお世話になる人たちにも失礼の無いように、ちょっとばかりガムシャラに生きてみます。


苦しみの先に「いいこと」が待っているかもしれないから。

夏の風物詩

聞こえてしまった。奴の鳴き声が。


今年初めての「蝉の声」



あぁ、夏だなあ。



夏といえば蝉、蝉といえば夏。


奴以外にも夏を連想させるものはたくさんあると思う。

花火、海、七夕、浴衣、ひまわり、スイカ冷やし中華、夏フェス..


どれも夏の風物詩といって差し支えないだろう。


他にも、夏を感じさせるものってありませんか。



僕にとって、それは、夜遅くに最寄りの駅前で騒ぐキチガイ


実はこいつら、セミよりも早く夏の始まりを告げてくれます。


こんなベッドタウンで夜中から明け方にかけて騒ぐド畜生の頭には脳ミソ詰まってないんか?


おかげさまで睡眠の質はダダ下がり。


かれこれ10年は夜な夜なバカ騒ぎするろくでなしたちに悩まされている。



酒飲みに睡眠を阻害され、セミの鳴き声で絶望の目覚めを繰り返す季節がやってきた。



セミが鳴かない夏など無いように、酔っ払いが駅前で吠えない夏など無いのだ。



耐え抜くぞ、夏。

甘いものはたまに食べるからこそ美味しいと思っていた。いつ食べても美味しいらしい

時刻は午後2時


天ざる蕎麦をたいらげ、油で弱った胃をいたわりながら横浜駅構内を徘徊している全身黒ずくめの若造がいたら、それは間違いなくワタクシだ。



彼は、甘いものを求めて髙島屋に向かっている。



数か月おきに、無性に甘いものが食べたくなる。そういう時はプリンを食べに行くが、今日の正解は違う気がした。


かと言って、これが食べたいというモノもなかったので、とりあえずなんでも売っていそうな髙島屋に行くことにした。



目的地に足を踏み入れると、あちらこちらで老眼に苦しむじじばばがショーケースにへばりついている。


そんな彼/彼女らを横目に、ひとまずお菓子売り場を一通り歩いてみることに。


突然、とあるお店の前でピタリと足が止まる。

僕の直感が言う。ここだ。ここに決めた。なんの根拠もないが、ここが良い。ここしか認めん。他は知らん。


そこはベルギーに本店を構えるお店らしい。チョコレートやケーキ、焼き菓子などが並んでいる。


おまけに目の前には綺麗なお姉さん店員。

そうだ、お姉さんが欲しい。すみません、お姉さんをください。


お姉さんを注文したい欲を押し殺して、ずらりと並ぶケーキに目をやる


よくわからんがどれもウマそう。きっとこんなバカ舌にはもったいないものばかりなのだろう。きらっきらしとるがな



どうせ全部美味しいに決まっているので、見た目で選ぶことにした。面食いってやつだ。


なかでも、桃がのっかっている可愛らしい何かが目にとまる



その名も

 
タルト・オ・ペッシュ


ははーん、なるほど

つまりこれはタルトをペッシュしたアレだなフムフムなかなかいいんじゃないか気に入った。


僕はショーケースの前で顎をさわさわしながら大きく頷いてみせる

それだけで周囲の人間への「僕は分かっていますよ」アピールは完了だ

仕上げに、腕を組みながら首をかしげて唸ってみせたり、こめかみを指でトントンしながら大股で店内を歩きまわったりして、周囲の人間を威嚇する。一瞬にしてヒエラルキー最下層の人間は頂点に成り上がった。


スイーツ界のご意見番のような雰囲気を醸し出すことに成功したが、僕は、「タルトに桃が乗っかっている甘そうなやつ」というサルでも分かる情報しか持ち合わせていない



よく見ると、商品名の下には、無知なイキりチンパン向けにご丁寧な説明文が添えられていた


----みずみずしい桃を飾った季節限定のタルト。まろやかなクリームとババロワが桃を引き立てます。


説明文に一切の無駄がない

スイーツ知識ゼロのド素人にも非常に分かりやすい


しかも、これでもかというほど綺麗な単語を並べているではないか。すべての単語が商品の魅力を底上げしている。なんなら助詞のひとつひとつすら美しい


この完全無欠な文章を考えた人、恐るべし。

魅力底上担当大臣に任命されるべきだ。僕が首相なら、間違いなくそうする。



僕はそのタルトなんたらを購入し、綺麗なお姉さん店員に別れを告げて帰路を急ぐ。



帰宅するや否や、誰もいない静かなリビングで開封の儀をおこなう。


まずはちょこんと乗っているラズベリーをパクリ。嗚呼、いつも君は期待を裏切らない。忘れかけていた青春の甘酸っぱさを思い出させてくれる。青春って何かよく分かっていないけれど、これは青春の味。誰が何と言おうと、これは青春の味。


続いて、みずみずしい桃とタルトの生地を一口でいただく。美味い。とにかく美味い。どれくらい美味いかというと、美味すぎて逆に不味いのではないかと疑うくらいには美味い。


しかし、何がどう美味いのか。全くもって説明ができない。


よくグルメリポーターが披露する、「そのくらい誰でも言えるだろ」レベルの感想すら出てこない。


美味さの表現の仕方とやらを学ぶために、今後食レポ的な投稿でもしてみようかな、と一瞬思ったけれどやめた。面倒くさい。こんな感じでダラダラと駄文を垂れ流していた方が性に合っている。



今回、自分の中では割と挑戦的な買い物だったけどおいしいものに出会えて幸せ。

もっと色んなものを食べてみたいと思ったり。


だが、金がない。稼がねば。結局、金がないと食べたいものも食べられない。世の中、金なんだなあ..








それにしても、タルトって食べるの難しすぎません?タルトがぼろっぼろに崩れてきて、先ほどまでの可愛らしい見た目が台無しだ。胃に入れば全部同じなわけだが、せめて口に入れるまでは美しい状態を保ってあげたい。

父 a.k.a 騒音

単身赴任中の父が実家に4日間だけ戻ってきている。

父の一時帰宅で、強く思ったことがひとつある。


「うるさい」


父がいるだけで騒音が発生する。

騒音おじさん。

決して大音量で音楽を流したり、さっさと引っ越せシバくぞと大声で叫んでいるわけではない点だけ補足しておく。



騒音の原因。

それは独り言だ。


昼下がりの静けさを見事に台無しにしてくれる。


父は、常人では理解し難い未知の単語をノンストップでぶつぶつ唱え続けている。


一体何をひとりごつっているのか。


決して意味のない言葉を発している訳ではないのだろう。

あんなにも一生懸命にひとりごつっているのだから、暗に何かを伝えようとしているはずだ。


「仕事が大変」

「母さんの当たりが強い」

「冷蔵庫にあったプリン食べちゃった」

「実は仕事辞めてきた」

「借金取りに追われている」


ここに挙げたものはあくまで僕の予想だが、きっとこれ以上のインパクトがあるものかもしれない。



とにかく、言いづらいことなのだろう



父は、常人には理解しかねる単語を並べることでそれを伝えようとしてくる


しかし、僕は父の言葉を騒音と捉え無視をしている


そうなると、悪いのは奇声を発している父ではなく、その意味を理解できない僕ではないか。



父の期待に応えられない自分が惨めでならない。


思い返せば、これまで父の期待に応えられた試しがなかった。



小学生の頃に通い始めたスイミングスクールは長続きしないわ、

高校受験で失敗して私立高校へ進学、

大学も私立に通うことになり、それはもう高額な授業料を負担させてしまっている。


いつも父の期待とは正反対の結果になってしまっていた。



これは汚名返上がかかった絶好の機会なのだ。


脳みそをフル回転させて考える

父が伝えたいことは何か


しかし、どうしてもわからない


古今東西の全言語に関する知識を持ってしてようやく理解することができるのかもしれない。



父さん、僕には無理だ


だからもうやめてくれ父さん..

昔から父さんの言うことはズレているんだ

今さら理解しようとは思えないよ父さん


すると、突然父は気を失い、いびきをかきはじめた

昼寝だ


呪いのように降りかかる独り言から解放され、ほっと一息



数日前に購入したONE PIECE 99巻をゆっくり読むとする




ここまでダラダラと書いてきたが、結局、言いたかったことはひとつ



早く帰ってくれないかなあ..

ブログと僕

SNSの更新頻度は最悪だ。

不特定多数の他人というよりも、自分に対してあまり興味がない人間に向けて自分の心情やプライベートの一部を晒すことに抵抗感があるのかもしれない。

SNSのフォロワーの中には、「こいつ誰だっけ?」みたいな人もいる。

そんな人たちに僕のどうでもいい近況報告をしたところでお互いに無益でしょう。


そんな腐った考えの人間がブログを書き始めるのだという。





まあ、まずは、ブログに興味を持ったきっかけからお話したい。


実は、遡ること10000000億年前からブログというものに触れるようになった。


当時、たまたま見つけたライターさんが書く記事がとても面白かった。

電車の中で読む時には、笑いをこらえるのに必死だった。

この人のように、面白いものを書けたらいいなと思うようになった。



しかし、当時の僕は、根暗・コミュ障・ネガティブ思考であった。(現在もそうかもしれないが)

いつも一人で静かに生きていた。

一人でいる方が楽だった。

頭を空っぽにし、考えることをやめていた。

思考停止の状態が本当に長かった。

活力と知能指数がみるみる下がっていき、常に倦怠感が全身にまとわりつき、死んだ魚の目をするようになった。

そんな俗世から脱落しかけていた僕が面白い文章など書けるはずもなかった。


結局は何も書けずに天文学的な年月だけが虚しく流れていったのだ。




ここで数少ない読者の頭上に大きな疑問符が浮かび上がる、


「毎日が充実してきたからブログを始めたの?」
「面白い文章が書けると思ってるの?」


答えはNOだ。

充実した日々なんてものは縁がないのかもしれない。


ましてや、面白い文章なんか書けるはずもない。

幼いころから文章を書くことが苦手ときたもんだ。


そんな僕からしたら、ブログはあらゆる情報伝達手段のうちで最も苦手なものの一つに数えられるだろう。




では、なぜこのブログを始めたのか。

かくかくしかじか、良くも悪くも人生が大きく変わろうとしている。

近く訪れる、この大きな変化への少しばかりの期待と大きな不安から来るストレスの捌け口としてこのブログを活用することにしたからだ。


他のSNSがあるならそっち使えよ、と思うかもしれない。
しかし、初めに述べた通り、あまり自分に興味を持っていない人に自分のことを曝け出すのは嫌なのであります。


その点、このブログを読んでくれている貴方は、わざわざ僕のInstagramからURLを踏んできてくれたのです。

試しにgoogleでこのブログのタイトルを検索してみたけれど、このブログはかすりもしなかったので、webからの流入は全くないと言っていいでしょう。


ここにいる貴方は、あいつが書くブログってどんなもんじゃい、と少しでも興味を持って訪れた知人という認識で正しいと思っています。


そういう人たちになら、見られてもいいのかなと。



このブログでは、僕が大学で学んできた経営学を中心とした様々な学問の観点から、現代社会にはびこる諸問題について僕なりの見解を述べていこう、ということは一切なく、


大したことのない日常を適当にダイジェストでお届けしていきます(需要無い)。

有益な情報を発信していく予定は一切ないので、ご容赦ください。


そんなこんなで、これからどうぞよろしくお願いしました。